学校できちんとした教育を受けられることは少し前まで一般的な事ではありませんでした。
しかし、それが一般的になる前でも何かを教えるための学校そのものはあったのです。
歴史の中では、そんな学校がいくつも名を残しています。
歴史に名を残している学校の中で、足利学校は室町時代に再興した有名な学校です。
広くその名を知られた足利学校とは、一体どんな学校だったのでしょうか。
足利学校はこんな学校
実のところ、足利学校の創建年代は定かではありませんが、再興されたのは15世紀の中ごろのこと。
関東を治める役割をしていた関東管領、上杉憲実が現在の栃木県に足利学校を再興させたのです。
上杉憲実が中心となって再興した足利学校では、全国から集まった禅僧や武士に対して高度な教育を受けさせると同時に、多くの書籍の収集も行っていました。
室町時代以前からあった足利学校がその名を広く知られるようになったのは再興されたあとの室町時代の事です。
足利学校は広く知識を求める学生が集う場所としてにぎわいました。
多い時には全国各地からおよそ3000人もの人が集まったといわれていることからも、そのにぎわいは察することができます。
室町時代の足利学校は江東の大学としてその名を知られるようになり、やがて関東の文化の中心となっていったのです。
足利学校、再興時の時代背景
室町時代、足利学校が再興出来たのには、当時の時代背景も大きくかかわっています。
足利学校が再興された頃というのは、ちょうど地方都市が作られた頃のこと。
そして地方の武士たちが中央文化へ強い憧れをもっていた頃だったのです。
ちょうどどんな中、応仁の乱によって荒れ果てていく京から公家や僧侶が戦国大名を頼って地方へ疎開してきました。
もちろん、地方の武士たちは中央文化に強い憧れをもっているため、中央文化の中心地、京から疎開してきた公家たちを拒否することはしませんでした。
そして、公家たちを受け入れた事で一気に中央の文化が地方へと普及していったのです。
中央文化の担い手でもあった公家たちが地方へ避難し、その文化に強い憧れを抱いていた戦国大名たちのもとに身を寄せたこと、そして地方の武士の子弟を寺院に預けて教育を受けさせるという習慣があったこと。
室町時代にこの2つの要素が合わさることで足利学校は再興され、歴史に名を残すほどのにぎわいを見せたのです。
外国人から見た足利学校
まさに時代の流れにより必要とされていた足利学校ですが、そんな足利学校の事をキリスト教を伝えるために日本へやってきた宣教師、フランシスコ・ザビエルが書き残しています。
足利学校を見たフランシスコ・ザビエルの足利学校への評価は、日本国中、最も大にして最も有名な坂東の大学、というもの。
フランシスコ・ザビエルによって下されたその評価は海外にも伝わり、日本でもっとも大きな学校としてその名を知られるようになったのです。