鎌倉時代の終わりごろ、荘園や郷の内部に生まれた村が各地に広がっていきました。
農民たちが自ら作り出したこれらの自立的、自治的な村が惣、または惣村と呼ばれるものです。
室町時代にはそんなさまざまな惣が誕生し、それぞれの自治のもとで生活を送っていました。
そんな室町時代の村の自治組織は一体どんな仕組みになっていたのでしょうか。
目次
共同体の名は伊達じゃない?
室町時代、村の自治組織を形作っている人々には強い結びつきがありました。
その結びつきの強さは、惣を一つの共同体と言い換えられるほど。
それほど強い結びつきを持てた背景には、厳しい掟や慣習などがありました。
その厳しさを物語る出来事があります。
建武元年(1334年)、菅浦の供御人の藤二郎が近江の平方浦で材木を積んだ船一艘を押し取られました。
また、同じく供御人平四朗が片山浦で舟を差し押さえられるという出来事がありました。
実はこの二つの出来事は、惣の慣習が深くかかわっています。
惣では、郷や村の共同体の中にいる誰かの借金は、他の誰かの品物を差し押さえてもいい、という慣習があったのです。
他人の借金の為に自分の品物が差し押さえられることが普通とされていた室町時代の村。
まさに村の自治組織を形成する人々は一蓮托生だったのです。
惣の構造
そんな強い結びつきをもった村の自治組織ですが、一体どんな仕組みになっていたのでしょうか。
室町時代の菅浦の惣をたとえに挙げて、見てみましょう。
惣はそれぞれが惣掟と呼ばれる自分たちで作りだした掟を持ち、その掟を守りながら生活していました。
そんな惣ですが、菅浦の惣は東村、西村の二つの村からなる二村構成でした。
東村、西村はそれぞれ祭礼の場所などは別に持っていたようです。
惣のタイプも一つじゃなかった?
一口に惣といっても、その仕組みはざまざまでした。
室町時代の惣のタイプは大きく三つに分けられます。
菅浦の惣はそのタイプの一つ、村人と呼ばれる百姓衆で作られた単一構成の惣でした。
また、土豪が共に住んでいて、支配権を握っているという惣のタイプは畿内などに多く見られます。
山城西岡の革島などがそのタイプです。
そしてもう一つ、有名な山城国一揆を起こした惣のタイプは地侍衆、百姓衆がそれぞれ共同体を作り、地侍衆の共同体が支配権を握っているという仕組みでした。
一口に惣といっても、その仕組みを見てみると、構成の仕方はさまざまだったのです。
室町時代の惣では、村の自治組織を形作る人どうしが強い結びつきを保つために惣掟や厳しい慣習を持っていたものの、それらすべての惣が同じ構成をしていたわけではなかったのです。