今まで日本の歴史の中では、さまざまな出来事が起こってきました。
けれど、連綿と続いている歴史では、小さな出来事がのちに思わぬところで大きな事件を引き起こすきっかけになったりするため、なぜこんな出来事が起きたのか、理解するのに一苦労する事も多々あります。
そんな歴史の中の出来事で、室町時代に起こった応仁の乱について、わかりやすく説明していきましょう。
将軍の権力は失墜中?
室町時代に起こった応仁の乱をわかりやすくするために、当時はどんな情勢だったのかをみてみます。
そのころ、将軍の持つ権力をもっと高めていきたいと考えていた4代将軍足利義教は専制的な政治を行うことで、それをかなえようとしていました。
その一環として、有力守護たちを弾圧しつづけていたのですが、それに耐えかねた者がいました。
それが当時有力守護の一人であった赤松満裕です。
その赤松満裕は1441年(嘉吉元年)、足利義教を殺してしまうという事件、嘉吉の変をおこすのです。
その結果、足利義教が望んでいた将軍の権力は強まるどころか逆に弱まってしまい、有力守護家や将軍家にたびたび内紛がおこるようになったのです。
応仁の乱がおこった室町時代の背景には、こんな時代背景があった事を理解しておくと、わかりやすくなります。
応仁の乱、その中心にいるのは?
応仁の乱はわかりやすく言うと、いくつかの争いがくっついて戦いになったものです。
その争いの一つとして、一番初めに起こったのが管領の職についていた二つの家の家督争いでした。
室町時代の管領といえば、足利氏一門で将軍を補佐する中心的な職でした。
その職についていた畠山家、そして斯波家の二つに家督争いが起こったのです。
そして次に将軍家の家督争いが起こりました。
8代将軍の足利義政の弟視と、義政の妻、日野富子が生んだ子供の義尚のどちらが将軍職につくかという争いを起こしたのです。
この時、義尚はまだ幼かったのですが、その母日野富子は義尚を将軍職にと考えていたようです。
そしてその将軍職を巡る家督争いに細川勝元と山名持農が介入してきました。
実はこの両名はこの混乱を利用して、幕府の実権を握りたいという考えを持っていたのです。
そしてこれらの争いがくっつき、1467年に起こったのが応仁の乱でした。
複雑になっている応仁の乱ですが、わかりやすく紐解いていくと、その混乱の中心は、将軍家の家督争いだったのです。
応仁の乱でチェックしておくべきものは?
応仁の乱は1477年に終わりを迎えましたが、当時の室町時代でチェックしておくべき事がいくつかあります。
まずは応仁の乱のきっかけになった家督決定。
室町時代の頃には家督争いは父の意志だけでなく、将軍や家臣の意向が大きく影響していたこと。
わかりやすく一言で言うと複雑化していたのです。
もうひとつ、応仁の乱の頃には戦いに足軽が活躍していた事。
このころ、足軽が活躍する時代になっていたのです。
ただ、足軽は混乱に乗じて強奪を行ったりもしていました。
そして最後に、応仁の乱は戦国時代の幕開けを告げるものであった事です。
まさにこのころから、下剋上の風潮が世の中を覆っていくことになるのです。