昨今、日米の金利差による急速な円安が話題となっていますが、中国の明との朝貢貿易が活発だった室町時代にも都市を中心に貨幣経済が浸透しています。
しかも、それまでは年貢を収穫した農作物などの物品で納めていましたが、貨幣が使われるようになり、商人の数も増加し、金融業者が登場します。
急な経済の発展で成長した「高利貸し」には、運送業の土倉を持つ業者や酒屋などが、兼業していたようです。
ここでは、室町時代の貨幣経済を利用して、幕府の貴重な財源ともなっていた「土倉」や「酒屋」についてご紹介します。
室町時代の金融業者「土倉」とは?
中国の明王朝との朝貢貿易の結果、平安時代には日本にも大量の宋銭が輸入され、貨幣経済が浸透し、借上と呼ばれる高利貸しの金融業者が増加します。
こうした金融業者は、金を貸す際に担保物品を預かるようになり、それらの物品を保管するために土蔵を建てたため、「土倉」と呼ばれるようになります。
また、不安定な社会情勢に不安を感じる人々が、土倉や蔵を持つ商人らに自らの財産や文書などを預ける風潮が高まり、預かった財産を元手に金融業を始める者も現れます。
こうした風潮は、商人だけでなく、朝廷や幕府、さらには庶民にも広がりをみせて急成長し、鎌倉時代後期から室町時代には、土倉を営む「酒屋」が数多く出現しています。
「土倉」は貨幣経済が発展するには必要不可欠な職業であり、幕府にとって貴重な財源ともなり、室町時代の京都には335件も存在したといわれています。
室町時代の金融業者「土倉」と「酒屋」の違いは?
室町時代に急成長した金融業者の「土倉」には、酒蔵をもつ「酒屋」が、本業の商いで得た利益を資金にして兼業として行う商人になり、多く出現しています。
とはいえ、室町時代のすべての酒屋が、土倉を兼業していたわけではなく、金融業を兼業する酒屋を通常の「酒屋」と呼び、酒の醸造から販売のみを行う酒屋を「造り酒屋」と呼んで区別されています。
また、酒造り業者が蓄財し高利貸しを始めたり、金融業者が酒屋を兼業するなど、本業をもつ金融業者の酒屋を「土倉酒屋」とも呼んでいます。
とはいえ、「土倉」も「酒屋」には、いずれも土蔵があり、高利貸しを行っていたことは共通し、室町時代の貨幣経済の活性化がみられます。
室町時代の貨幣経済に存在力を示した「土倉」や「酒屋」
中国の明王朝との貿易による外貨の流入や、年貢の物納から貨幣による徴収の変化は、室町時代に「土倉」と呼ばれる高利貸しの金融業者を数多く生み出しています。
金を貸す相手から担保を預かるため、質種となる物品の保管場所が必要で、蔵を建て金融業を本業としたため、「土倉」と呼ばれています。
酒造りのために蔵を保有する酒屋の中には、蔵を利用した副業で高利貸しを始める商人も多く現れ、「土倉酒屋」とも呼ばれています。
一方、酒の醸造と販売のみを行う酒屋は、「造り酒屋」と呼ばれ、金融業の有無が区別されています。