二人いた室町時代の天皇

室町時代、天皇が吉野の山中にいた、というと少し不思議に思う方がいるかもしれません。

「なんで京ではなく少し離れた吉野の山中?」

しかし実際、室町時代の初めには吉野の山中に天皇がいました。

ですが一方で、もう一人京には天皇がいたのです。

一人は京の中に、もう一人は吉野の山中にいて正統な皇位を持っているのはこちらだと主張していた室町時代。

どうしてそんなことになったのでしょうか。

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京と吉野に一人ずつ?室町時代の天皇

鎌倉時代が倒れた後、政権をにぎった後醍醐天皇。

天皇政治の最盛期といわれた醍醐・村上天皇の親政を目指すあまり、武士社会の慣習を無視し、武士たちの不満を買います。

1336年(建武3年)、そんな武士たちをまとめ、京都を制圧した足利尊氏は後醍醐天皇の代わりに、持明院統の光明天皇をたてるのです。

一方、今までの立場からおろされた後醍醐天皇は吉野の山中に逃げ、正統の皇位を主張しつつ、南朝を立ち上げるのです。

こうして室町時代には天皇が二人いることになり、持明院統の北朝と大覚寺統の南朝が対立する南北朝の動乱が始まるのです。

そもそも持明院統と大覚寺統って?

北朝は持明院統、南朝は大覚寺統。

でも、そもそも持明院統と大覚寺統とはなんでしょう。
京にいる光明天皇の持明院統とは後深草上皇の流れをくむ系統で、吉野の山中にいる後醍醐天皇は亀山天皇の流れをくんだ系統です。

南北朝の動乱が始まる前からこの2つの系統は仲がいいとはいえませんでした。

皇位の継承や院政を行う権利などを巡り争う間柄だったのです。

2つの系統の争いをなんとかなくすため、足利尊氏が光明天皇をたてるまでは両統が交代で皇位につく両統迭立という体制がとられていました。

天皇が一つになるまで

京と吉野にわかれて存在することになった室町時代の天皇。

1392年(明徳3年)に南朝側と足利義満が交渉し、南北朝の合体を実現するまで一つにならず、ずっと二人の天皇がいることになります。

それまで、南朝側は後醍醐、御村上、長慶、御亀山と代替わりし、北朝側も光明、崇光、後光厳、後円融、後小松と位を譲っていくのです。

そして足利義満の交渉の末、南朝の御亀山天皇が皇位を放棄して入京し、それ以降の天皇は北朝の後小松天皇ただ一人となるのです。

室町時代になる前、南北朝の動乱以前から続いていた持明院統と大覚寺統という2つにわかれて争っていた両統の天皇。

その対立は南北朝の動乱によって明確になり、南北朝の合体に従って南朝が皇位を放棄するまで続くのです。

一度は政権を手にしながら吉野の山中に追われ、そこで正統な皇位を主張し南朝をたてた後醍醐天皇。

代替わりしてもずっと正統な皇位を主張しつづけたのには、室町時代以前から皇位をめぐる両統の争いがあったからなのです。

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