室町時代のころは、そこを通る為に通行税を払わなくてはいけない関所が数多く設けられた時代でした。
今で言うと、高速道路を通る為に料金所でお金を支払うようなものだと考えるとわかりやすいと思います。
しかし、室町時代、その通行税を取るための関所は今では想像もつかないくらいに数多く設けられていました。
なぜそんなに多くの関所が作られていったのでしょう。
また、具体的にはどれだけの数の関所が設けられていたのでしょうか。
財源として目をつけられた関所
室町時代になると、地方に特産品が生まれるなど、地方産業が盛んになっていきました。
そうなってくると、次に活発になるのが遠隔地取引。
そしてその影響を受けて各地を行き来する商人が増えていったことで海や川、そして陸の通路が発達していきました。
例えば、『兵庫北関入船納帳』などによると、大安2年(1445年)の一年で瀬戸内海の各港から荷を積んで兵庫港に出入りした船の数は2700艘以上でした。
それは室町時代以前と比べて目を見張るような増加ぶりだったため、室町時代の幕府や寺社、公家たちはそれを利用して儲けを得ようと考えました。
その結果、それらの商人たちが行き来する交通の要点となる場所に関所をもうけ、関銭、津料と呼ばれる通行税をとったのです。
設けられた関所からの通行税は関所を設けた幕府や寺社、公家たちにとって、室町時代の重要な財源となりました。
そして、そういった理由から設けられた関所は膨大な数にのぼるのです。
絵巻物でも見られる関所
室町時代、幕府などによって数多く設けられた関所は絵巻物の中でも描かれています。
例えば『石山寺縁起絵巻』には関所を通る馬借の姿を見てとることができます。
その『石山寺縁起絵巻』に描かれている関所は、京都方面の領主のもとに荘園の年貢を届けるため、大津の関所を通る馬借の姿だと考えられています。
大津は京都に近く、そこを通る年貢や商品の数は数知れず。
それに伴い多くの商人たちがその道を行き来するため、通行税を取り、利益を得たい室町幕府などにとっては外せない関所の設置場所だったのです。
多すぎる!室町時代の関所
鎌倉時代の交通は京都と鎌倉を中心としていましたが、室町時代になると京都を軸とした交通が発展していきました。
もちろん、それに伴って陸では京都から奈良間や伊勢街道に多くの関所が設けられたのです。
特に伊勢街道では十数キロの間に60ヶ所あまりの関所が存在していました。
また、室町時代最大の幹線水路である淀川には1457年ごろ、最高400もの関所が設けられていたことが記録に残っています。
室町時代に入り、各地を行き来する商人たちの数が増えた室町時代。
そしてその増加を見逃さなかった室町幕府や公家たち。
その2つの要素が合わさったことで、室町時代に設けられる関所の数はどんどん増えていったのです。