日本の歴史を見てみると、鎌倉時代が終わり、室町時代にと移り変わっていく時に、朝廷が同時に二つ存在する期間ができています。
なぜ朝廷がその時二つになってしまったのでしょうか。
何かそれまでと違ったことが起こる時には、その理由やきっかけがあるものです。
室町時代には、いったいなぜ朝廷が二つにわかれるといったことが起こったのでしょうか。
目次
朝廷が二つ誕生?
鎌倉時代が終わり、室町時代になっていく中で二つ朝廷が存在するようになったのには、もとはといえば鎌倉時代の後に政権を握った後醍醐天皇への武士の不満がピークに達したことが原因でした。
鎌倉幕府が倒された後、鎌倉幕府を倒した中心にいた人物である後醍醐天皇がトップとなり、政権を握りました。
しかし、後醍醐天皇の政策は武士には不満の多いものだったので、徐々に不満が高まっていくのです。
その武士たちの中心に居たのが鎌倉幕府を倒した時に活躍した足利尊氏でした。
1335年(建武2年)、北条高時の子である時行が反乱を起こした中先代の乱をきっかけに、足利尊氏は後醍醐天皇の新政権に反旗を翻したのです。
そしてその勢いで京都を制圧した尊氏は後醍醐天皇の代わりに光明天皇をたて、当面の政治方針を示した建武式目を発表、京都から吉野の山中に逃げた後醍醐天皇と対立します。
逃げ延びた後醍醐天皇はそれに対し、正統の皇位を主張したことで、吉野の朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が同時期に存在するという事態になったのです。
南朝と北朝という二つの朝廷の誕生はそのまま後醍醐天皇と足利尊氏が率いる武士たちとの対立でもあったのです。
争いは南朝、北朝の間だけじゃない?
室町時代にこのような流れで誕生、対立することになった二つの朝廷ですが、この室町時代の争いは南朝と北朝の間だけではありませんでした。
足利尊氏率いる北朝の内部でも起こっていたのです。
北朝では足利尊氏と弟の足利直義とで政務を分担していました。
しかし、直義派と尊氏の執事高師直を中心とする一派が対立、そこに相続問題も絡んで観応の擾乱と呼ばれる武力対決にまでなってしまったのです。
室町時代の頃の南北朝動乱とひとくくりにされるこの時代の争いですが、二つの朝廷の間だけではなく、一つの朝廷の内部でも様々な派閥が争いを繰り広げていたのです。
統一されたのは60年後?
時代が変わるときに起こった南北朝の動乱。
二つに分かれていた朝廷が再び一つに統一されたのは、なんと二つに分かれてから何と約60年後でした。
南朝と北朝という二つに分かれていた朝廷の統一に成功した人物は足利義満、室町時代の3代将軍でした。
長く続いた戦いに消耗していた両者は約60年の年月をへて、やっと統一に合意したのです。