日本では昔から、人々が日々の暮らしを送るなかで大切に行われてきた行事がありました。
その行事の多くは当時の人々の暮らしや、ある事に関しての熱意が感じられるものであり、なかには数多くの史料が残っているものもあります。
室町時代、人々の暮らしに根付いていたそんな行事をいくつか見てみましょう。
女、子供も働きます!田畑の行事
室町時代、農作業はとても大切なことであり、常に人々の暮らしとともにありました。
そんな農業では、特に農作業の始まりの正月、春の豊作祈願、そして秋になったら収穫祭と、暮らしに基づく様々な行事が行われていました。
なかでも、田植えは村人一丸となって取り組む大切な行事。
その日の為におろした新しい着物を着て田植えをして、豊作祈願の田植えの舞や歌を神にささげるなど、にぎやかなお祭り騒ぎで行われたのが田植えなのです。
特別な日とされていたので、田んぼのそばに御馳走を用意して、村人みんなで祝宴を開いたりもしていました。
現代とはだいぶ様子の違う、田植えの行事には、もちろん女、子供も参加します。
稲を植えたり、鳥などを追い払ったり、それぞれ活躍する場がありました。
そんなにぎやかな田植えの様子は、たとえば「月次風俗図屏風」などにも描かれています。
そこには、やはり村人総出で田植えに取り組む人々の姿が描かれていますが、どうしてこれほど田植えを大切に行っていたのでしょうか?
それは、室町時代の当時の人々の考え方を見るとわかります。
昔、例えば室町時代の頃には、人々は稲そのものに神様が宿り、稲作は神様がなさること、という考え方がありました。
この考え方が強く根付いていたからこそ、人々は神様への感謝やご機嫌伺いも兼ねて田植えを盛大に行っていたのです。
祇園祭りにかける人々の熱意!
農村から視点を変えて、町の行事を見てみましょう。
室町時代におこった応仁の乱のため、京はすっかり荒れ果てていました。
その応仁の乱の際に、現代でもよく知られている祭りである祇園祭につかう山鉾も焼けてしまい、祇園祭も途切れていました。
ですが、応仁の乱が終わると、豊かになった商工業者が中心となって組織される京都の町衆がそんな現状に立ち向かいます。
当時住民の自治組織である町、そして町が集まった町組が組織されたりしていましたが、自分たちで動く、という考えが暮らしの中で根付いていた町の人々が行動をおこしたのです。
そして廃れていた祇園祭を人々自身の手によって復活させたのです。
応仁の乱が終結し、途切れた祇園祭が再開されたのは1500年のことでした。
盛り上がる祇園祭は洛中洛外図屏風に描かれています。
人々が主役の暮らしの行事
室町時代、今取り上げた田植えや祇園祭など、様々な行事が人々の暮らしの中に根付いていました。
そこからは、その事に関する人々の熱意や暮らしの中でもっていた考え方などをうかがい知る事が出来ます。
暮らしに根付いていたそんな沢山の行事ですが、共通することは人々が一致団結して行っていた事。
村人も、町人も、多くの人々が協力して行事を行い、盛り上げ、楽しんでいたのです。