思惑色々室町時代の応仁の乱

室町時代に起こった大きな争いといえば、1467年に始まった応仁の乱を一番に挙げることができます。

東軍と西軍とに分かれ、10年間にわたって続いた応仁の乱。

しかし、これほど名前が知られた争いでありながら、その原因ははっきりしません。

何か一つの原因で起こった争いではなく、いくつかのきっかけが発端となって起こった争いなのです。

室町時代に起こった応仁の乱の背景にあったものはなんだったのでしょう。

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応仁の乱が起こった頃の時代背景

室町時代に起こった応仁の乱ですが、まず押さえておきたいのがその頃の時代背景です。

その頃は赤松満裕が室町時代の6代将軍足利義教を殺害した嘉吉の変で、将軍の弱体化が進んでいました。

将軍の権力の弱まりは有力守護家や将軍家に内紛が多く発生するきっかけとなりました。

さまざまな家の内部に争いが起こりやすかったこの頃の時代背景が応仁の乱のきっかけを作る大きな要因だったのです。

原因を3つに分けて考えると

応仁の乱の原因は大きく3つに分けて考えることができます。

まず一番に挙げられる大きな原因は室町時代の将軍の跡継ぎを巡る争いです。

8代将軍足利義政の後を継ぐ家督争いが起こったのです。

義政の弟である足利義視側と、義政の妻、日野富子の子供である足利義尚側が跡継ぎの座を巡って争ったのです。

応仁の乱の中心にあったのは将軍の家督争いだったのです。

そして、家督争いが起こっていたのは将軍家だけのことではありません。

応仁の乱を引き起こしたもう一つのきっかけも別の家の家督争いでした。

こちらは管領家の家督争いです。

それも、1つの家だけではありません。

家督争いが起こったのは畠山家、そして斯波家の両管領家という2つの重要な立場の家でした。

将軍家の家督争いと同じ頃に起こった両管領家の家督争いは室町時代において世間を不安定にするには充分すぎるものでした。

さらに、その家督争いに介入してきたのが細川勝元と山名持豊。

家督争いに介入することで幕府の実権を握ろうという野心を抱えていたのです。

この2名の家督争いへの介入が応仁の乱の3つ目の原因になりました。

この3つの要因が重なり、京を舞台にした応仁の乱の火ぶたが切って落とされたのです。

争いの最中は

そうして始まった応仁の乱は細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて戦いました。

『応仁記』によると、この時の兵力は東軍が16万、西軍が11万だったとのこと。

京を荒れ果てさせた応仁の乱は長引き、結局1977年(文明9年)に戦いつかれた双方に和議が結ばれ、終戦となるのです。

和議を結び、終戦という終わりを迎えた応仁の乱。

その背景には当時の将軍である義政の乱れた政治と混乱した社会状況がありました。

応仁の乱の混乱はそのまま当時の混乱した時代を映しているものだったのです。

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