それまで農民が作物などの物品で納めていた年貢を貨幣で納めるようになったり、商人の数が増え、それまでになかった品物が流通するようになった室町時代には、それら経済の発展とともに成長してきた職業がありました。
今でいう高利貸しといった金融業です。
ですが、室町時代には高利貸しが酒屋などの他の職業と兼業していることがよくありました。
なぜ、酒屋とまったく共通点のないように見える高利貸しなどの金融業を同時に商っていたのでしょうか。
室町時代の高利貸し
室町時代には、経済の発展に伴って高利貸しの職業も成長を続けていきました。
今では高利貸しと呼ばれるこの職業は、鎌倉時代では借上、室町時代当時では土倉と呼ばれていました。
土倉は経済が発展する中で、なくてはならない職業であり、幕府にとって貴重な財源ともなっていました。
幕府から財源として重要視された土倉ですが、京都ではその頃335件もの土倉があったといいます。
また、幕府に対する影響力の大きさもあり、土倉は町衆として政治的な力を持っていました。
土倉は室町時代の社会を担う一角として大きな存在感をもっていたのです。
兼業している酒屋としていない酒屋の見分け方
室町時代に大きく成長していた土倉ですが、兼業として酒屋などを商うことも多くありました。
そもそも室町時代の酒屋は富裕な商工業者が多く、その商いでためた資金を元手に数多くの職業を兼業していることが多くあったのです。
例えば荷物を送る流通業に通信業など、その商いの範囲は幅広いものでした。
酒造業者が富を蓄えて土倉を始めたり、金融業者が酒屋を兼業したりしたものを土倉酒屋といいます。
しかし、室町時代のすべての酒屋が土倉と兼業していたわけではありませんでした。
土倉を兼業している酒屋、そして酒を造り、販売する事を専門としている酒屋、両方が存在していたのです。
その2つの種類の酒屋を呼び分ける言い方があります。
土倉など、金融業を兼業している酒屋を通常の酒屋、一方、酒を造り、販売することだけを行っている酒屋は造り酒屋とよばれ、区別されていたのです。
土倉と酒屋の共通点
一見全く共通点のないようにみえる、金融業者である土倉と、酒を造り、販売する酒屋。
ですが、意外な共通点がひとつあり、それこそが土倉が酒屋を兼業するおおきな理由ともなっていたのです。
その意外な共通点が土倉と酒屋の両方ともに土蔵があるということ。
そもそも土倉は土蔵に質草などを保管していた事から土倉という名前になったのです。
土蔵を簡単に説明するならば木骨、外壁を土壁として漆喰などで塗りあげられた建物、といったところでしょう。
これら土蔵が初めに建てられたのがいつごろなのかははっきりしませんが、こうして作られた土蔵は米殻、繭、酒といった物の倉庫や保管などに使われていました。
これらの土蔵は防火や防湿に優れ、まさに酒屋や土倉には欠かせないものだったのです。
酒屋をするにも、土倉をするにも必要となってくる土蔵。
土蔵をもっているという共通点があるからこそ、室町時代の土倉と酒屋は兼業を行うところが多かったのです。