室町時代に将軍として政治の中心にいた足利家。
室町幕府を作り上げてからずっと、足利家が中心となって政治を行っていました。
そのように、室町時代とともに生きた足利家の人物の中に、足利義教という人物がいます。
どうやら足利義教は少し変わったあだ名を持っていたりと、何かと話題に事欠かない人物だったようです。
そんな足利義教が将軍になった時には、どんな政治を行っていったのでしょう。
変わったあだ名持ち?足利義教はこんな人
足利義教は足利義満の子供であり、6代将軍という立場に就いた人物です。
そんな足利義教ですが、なんと将軍職に就任する前には僧侶でした。
それも、若くして僧侶の中でも高い立場に就いていて、その逸材ぶりを伺うことができます。
そのように、僧侶生活を送っていた足利義教に転機が訪れたのは突然でした。
前将軍に後継者がいなかった為、次期将軍を決めるためにくじで次の将軍を決めることになったのです。
そしてくじが引かれた結果、次の将軍の座に決まった人物こそ、足利義教だったのです。
僧侶であった足利義教が室町時代の6代将軍になったうらにはこんな事情があったのです。
このことから、足利義教はくじ引き将軍というあだ名をつけられています。
めざせ!将軍権力強化!
そんな経緯を経て室町時代の将軍となった足利義教ですが、その政治のやりかたには苛烈なところもあり、「悪御所」というあだ名もつけられています。
室町時代の6代将軍、足利義教が行った政治の狙いは将軍力の強化でした。
それまで室町時代では将軍と有力守護との力が釣り合うように保たれ、一応の安定を保っていたのですが、更に将軍の権力を増そうと専制的な政治を行ったのです。
そうして起こったのが1438年(永享10年)の永享の乱です。
1438年に関東へ討伐軍を送り、翌年には当時幕府に反抗的な態度をとっていた鎌倉公方足利持氏を攻め滅ぼした事件です。
その永享の乱では、鎌倉公方の足利持氏と関東管領上杉憲実の対立をきっかけに、上杉氏を支援することによって足利持氏を滅ぼしているのです。
そのように専制的な政治を行い、時に苛烈な一面を見せる足利義教には、着々と終わりの時が近づいていました。
将軍力強化、失敗
それまで均衡を保っていた有力守護たちと将軍の力の均衡を崩す室町時代の6代将軍、足利義教に対して、もちろん不満の声や処罰を恐れる者たちも増えていきました。
そして1441年、その事件が起こります。
弾圧され続けていた有力守護の中のひとり、赤松満裕が足利義教を自宅に招き、殺害したのです。
これを嘉吉の変といいます。
皮肉にも、足利義教がより力をつけようとした将軍の権威は、この事件をきっかけとして逆に弱まっていくのです。