昔から日本と関わりが深い国、中国。
今の中国は室町時代には明と呼ばれていました。
その明と日本は、室町時代に初めて正式に国交が結ばれたのですが、少し特殊な貿易の仕方をしていたのです。
室町時代、日本と中国はいったいどんな貿易をしていたのでしょうか。
明と日本が手を組むまで
まず、日本と国交を結ぶまでの中国の歴史を見ると、なぜその頃近隣諸国と国交を結ぼうとしていたのかがわかってきます。
そもそも、現在の中国が明と名乗り始めたのは1368年の事です。
それまでの元の支配を朱元璋(太祖洪武帝)が退け、漢民族の王朝、明を建国したことから新たな歴史が始まりました。
そしてまず狙った事は、中国中心の国際秩序の回復でした。
その為に近くの国々と国交を結ぶことが必要だったため、近隣の国々に通交を求めたのです。
その近くの国のひとつ、日本では明と正式な国交を結んではおらず、私的な商船の往来だけであり、貿易をしてはいませんでしたが、室町時代の将軍、足利義満が1401年に明との国交を結んだのです。
勘合貿易の名の由来
明との貿易は日明貿易と呼ばれますが、一方で勘合貿易とも言われています。
明との貿易では、明へ遣わす遣明船は明から交付された勘合と呼ばれる証票を必ず持っていかなければいけませんでした。
この証票こそ勘合貿易の名前の由来なのです。
明との貿易で勘合という証票が必要だったわけは、室町時代の頃活発な動きを見せていた倭寇という海賊と区別をつけるためでした。
勘合貿易の仕組み
勘合貿易では貿易を始める前に勘合という証票を確認することが必要です。
確認の仕方ですが、「日本」の二字をわけ、明からの船は日字勘合を、日本からの船は「本字壹號」の本字勘合を持ってきて、明に保管されている底簿と呼ばれるものと照合するという方法で確認をとっていました。
では、その勘合を使った肝心の貿易の流れはどうなっていたのでしょう。
勘合貿易では、まず勘合がなければ始まりません。
この勘合はあらかじめ明の政府がまとまった量を作り、足利将軍にはじめに渡しておきます。
そして遣明船が出発するときに本字勘合を一枚もらっていくのです。
その際、裏には品やその量を書いておきます。
そして明の港、寧波に着くと、それが底簿と一致するかチェックするのです。
しかし、これで終わりというわけではありません。
もう一度勘合を確認し、そこで初めて貿易が開始されるのですが、確認する土地は寧波ではなく、明の首都である北京でした。
そこで再び勘合をチェックした後、改めて貿易が開始されていたのです。
室町時代の中国との貿易は少し特殊で、色々な段階を踏む必要があったのです。