日本人が主食としている、お米。
米屋だけではなく、スーパーでも売られているのを見たことがあると思います。
スーパー側も売り出しの目玉商品として広告に米価を載せていることも多いです。
それはやはり、人がよくお米を食べており、そんなお米を安く買えると知って人が集まるからです。
そんなお米の値段である米価を巡って、室町時代にはどんな動きがあったか見ていきましょう。
今と違って古米が新米より高かった?
現代ではピンからキリまで米価や品種があるお米。
そのお米の中でも、新米は特においしいものです。
では、新米と古米だったらおいしい新米の方が価値が高い、そして米価も高くつけようと考えるのが現代です。
しかし、室町時代では古米の方が米価が高かったようです。
実は、新米より古米の方が炊いた時に量が増え、その分お腹を膨らますことができるのです。
そのことから、室町時代ではおなかいっぱい食べる事が出来る古米の方が新米よりも値段が高いのだという説を唱える人もいます。
今と室町時代では、おいしさか、量かなど、重視するものが違うのです。
米商人、集合
室町時代から戦国時代にかけて京都で作られた米市場は米場、といいます。
また、室町時代には同業者たちがそれぞれ同業組合である座をつくり、活動していた時代ですが、お米を扱う商人も同じく座を作っていました。
そうして座を作った米商人たちによって、京都に出回るお米はほぼ独占的に販売されていたのです。
独占的にお米を京都で売る事が出来る、仕入れる事が出来るとなれば、もちろん米価も京都の米商人たち次第。
京都の米価は、米商人たちによって操作される状況が出来あがっていったのです。
米商人に左右される米価
京都に運ばれるお米は米商人によって販売されましたが、商人としては少しでも米価を高くしたいもの。
米価を高くするために米商人たちは様々な方法を使いました。
例えば、米価に限らず、物の値段は、欲しい人が沢山いるのに、その物があまり手に入らない時に高い値がつきます。
室町時代の米商人たちはその事を利用します。
京都に続く道路を通行止めにし、お米が京都に入ってこないように仕向けたのです。
すると、なかなか手に入らない分、米価は高くなっていきます。
それこそが京都の米商人の望んでいた状況でした。
道路を閉鎖してしまうことで米価を高くし、利益を得ようと考えていたのです。
京都で座を作っていた米商人たちは京都に入ってくるお米を独占的に手に入れていたので、こんなに大胆な手が打てたのです。
京都に出回るお米の米価は、京都の米商人たちの手によって左右されていたのでした。
新米よりも古米の方が米価が高いとされていたり、米商人たちが作る座によって京都に出回るお米の米価が左右されたり。
室町時代の米価に注目してみてみると、そこから見えてくるのは、今とは全く違う様子をみせる、米価の付け方です。
時代とともに、お米を巡る騒動は繰り返され、それが米価にも表れていたのです。