室町時代は農民たちが自治的、自立的に作り上げた惣という村が全国で増えていった時代でした。
そんな村である惣のように、京都でもそこに住む人たちが自治的、自立的に作り上げた町、という組織があります。
では、京都に作られた町、という組織はいったいどんなもので、どうやって自治を行っていたのでしょうか。
京都が二つに分かれてた?
室町時代には全国各地にその姿を現した惣。
その惣と同じように、自治を行う組織も増えていきました。
その一つが京都に出来た町という組織です。
京都に町が出来たのは南北朝の動乱のあとでした。
南北朝の動乱が終わり、京都が政治の中心になると、京都にある二条道という通りの両側には店が立ち並びました。
それらの店が一つに集まり、一つの共同体組織を作ったのが町という組織です。
そして二条通をはさんで二つに分かれ、片方が下京、もう片方が上京と呼ばれるようになっていきました。
こうして室町時代に二つに分かれた京都では、そのそれぞれが自治を行っていったのです。
町はどうやって運営していた?
では、自治を行っていた京都の町はどんな仕組みになっていたのでしょう。
室町時代の京都で自治を行っていた町は、裕福な商工業者、有力市民によって運営されていました。
京都の町を実際動かしていた、そういった人たちは町衆と呼ばれました。
また、その中からは月行事、という月ごとのリーダー役を務める人が選ばれます。
そんな町衆や月行事によって運営されていた町ですが、その中身を見てみると、規模が大きく、室町時代頃、下京を形作っていたのは六十六もの町だったのです。
そしてそれらの町をさらに五つの町組にわけていました。
上京も下京と同じで、五つの町組の組み分けをしていました。
二条通を境にして自治を行っていたこれら二つの組織。
一つの組織の中で起こった問題には組織の中で対処できますが、時には二つの組織のちょうど間で問題が起こることもありました。
例えば、京都では下京と上京のちょうど間にある二条室町という場所が真ん中に当たります。
そんな境となる場所で大喧嘩がおき、騒動になったことがありました。
どちらの組織の問題ともいえないそんな問題を解決する時には、下京と上京の両方から代表者を出していた、という記録が残っています。
町はそれらを運営する人々の工夫によって成り立っていたのです。
祇園祭で結束を固める!
京都で夏に行われるお祭りといえば日本中にその名を知られた祇園祭。
この祇園祭が成立したのは平安時代ですが、神輿の渡御とともに、町々から山鉾を出し、京都の町の中を練り歩く、という現在の祭りの形が出来たのは南北朝の動乱が鎮まり始めたころのことでした。
室町時代の前に一度途切れてしまった祇園祭ですが、庶民の努力によって室町時代頃に再び行われるようになったのです。
動乱の中で自衛のために結束を固め、その結束をより強くするために一役買ったのが祇園祭なのです。
いってみれば、祇園祭は室町時代の京都の自治の象徴、そして町の結束の固さを物語るものでした。
町中を巻き込んで盛り上げる祇園祭は町の人たちが一体とならなければ出来ない行事。
室町時代の京都では、さまざまな工夫をして、自治を行っていたのです。