室町時代の政治はかじ取りが難しかった

いつの時代であっても、政治はなかなか安定せず、むしろ波乱続きの時が多いもの。

室町時代もそんな時期の一つでした。

室町時代には、何人かの将軍が政権を握っていましたが、その時々によって同じ手法を使った政治でもうまくいったりいかなかったりしていたのです。

将軍たちは政権を安定させるために、政治上でどんな手をつかっていたのでしょうか。

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室町幕府をそだてた将軍、とった手段は過激すぎ!

室町時代では、室町幕府を作った前後はなかなか幕府自体が安定しませんでした。

しかし、3代将軍足利義満の頃になると、室町幕府もだいぶ安定していきます。

足利義満はそれまで朝廷が持っていた京都の市政権や段銭の徴税権などの権限を管轄下に
置き、室町幕府を確立させました。

そして、管領などの幕府の機構も整えていきます。

他にも、将軍権力を支える軍事力を育てるため、奉公衆という直轄軍を編成したりなど、着々と身の回りを整えていきました。

その中で、南北朝の動乱の中で強大となっていた守護の統制をはかるのですが、その時にとった手段は有力守護を滅ぼし、勢力をそぐという過激なものでした。

こんなところに将来の火種が・・・

室町時代において、様々な仕組み、機関を整えた足利尊氏と足利義満。

もちろん、地方にも目を光らせるため、地方機関として鎌倉府や九州探題を置きます。

足利尊氏は特に鎌倉幕府の基盤だった関東を特に重視したため、足利基氏に鎌倉公方として鎌倉府を開かせ、東国の支配をまかせたのです。

しかし、その地方機関に将来の火種は隠されていました。

この地方機関、その組織は幕府とほぼ同じものであり、権限が大きかったため、しばしば京都にある幕府と衝突を繰り返すようになったのです。

同じ手法は通じない!足利義教の失敗

室町時代の6代将軍、足利義教は更に将軍の権限を強めようとして、その姿勢を政治にも出していきます。

そして行ったのが、有力守護を弾圧すること。

幕府に反抗的な鎌倉公方足利持氏をうち滅ぼすなどの手段で勢力をそごうとしたのです。

これは、3代将軍足利義満が行った有力守護の勢力をそぐ方法と同じです。

しかし、その手法は今度はうまくいきませんでした。

弾圧を続けた足利義教はそれを警戒した有力守護の一人、赤松満裕によって自宅に招かれ、そこで殺害されてしまうのです。

1441年(嘉吉元年)に起こったこの出来事を嘉吉の変といいます。

同じ年に赤松氏は幕府によって討伐されてしまうのですが、この出来事によって将軍の権力は弱まっていくという結果に終わりました。

将軍権力の強化を目指した足利義教の理想とは全く反対になってしまったのです。

先人が行った手法を利用してもその時のようにうまくいくとは限りません。

足利義満と足利義教の政治を比較し、学んでいくと、政治のかじ取りの難しさがわかるのです。

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