室町時代を生きた足利義尚とは?

さまざまな事件が起こったり、一方でさまざまな文化が武士、庶民問わず、色々な文化が花開いた室町時代。

そんな室町時代を生きた一人の人物、足利義尚について見ていきましょう。

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足利義尚ってどんな人?

足利義尚は室町幕府の9代将軍であり、8代将軍である足利義政とその正室、日野富子の間に生まれた人物です。

のちに義煕(よしひろ)と名を改めたとも伝えられています。

文武両道に秀でていたと伝えられており、一条兼良を家庭教師の様な立場に置いており、政道や和歌などを学んでいました。

また、特に和歌が好きだったようで、歌会もたびたび開いていたようです。

その和歌好きが伝わる史料として、詠まれた和歌が入っている「常徳院御集」などといわれる歌集がいまでも伝えられています。

どちらが家を継ぐ?

足利義尚といえば、あの有名な応仁の乱と深い関係がある人物でもあります。

8代将軍であった足利義政には足利義視という弟がいました。

足利義政には子供がいなかったため、後継者として弟の義視を養子にしていたのですが、やがて問題が起こります。

足利義政の正室の日野富子が義尚を生んだのです。

子供がいなかったので弟の義視を養子にして後継者にとしていたものの、義尚が生まれると日野富子は義尚こそ次期将軍にと望みます。

このことがきっかけとなり、やがて応仁の乱に発展していくのです。

応仁の乱のきっかけは家督争いだったのです。

室町時代のこのころは地位を巡る争いが多くなっていたころであり、その争い方も今までより複雑になっていました。

今までの時代のように室町時代では父の意向だけではなく、将軍や家臣の意向に大きく影響されるようになったので、だんだんと複雑化していたのです。

応仁の乱後は?

応仁の乱を経て父の8代将軍足利義政から将軍職を譲られ、室町時代の9代将軍に就任した足利義尚。

しかし、9代将軍の座に就いた時、足利義尚はわずか9歳でした。

まだ幼いといってもいい年頃である義尚が政治を行えるはずもなく、将軍に就任したとはいえ最初足利義政と日野富子が中心となって義尚の代わりに政務をおこなっていました。

そうして成長していく中で、10代前半のころから室町時代に流行した歌会をたびたび催すなどして文化人としても知られていくことになるのです。

ただ、年を経るにつれてお酒におぼれるようになっていき、最後は20代という若さで亡くなってしまいます。

そして一説には過度の飲酒が原因といわれる足利義尚の死により、文化人として手掛けていたさまざまな歌人を集め、編纂しようとしていた『撰藻鈔』は未完に終わってしまうのです。

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