室町時代に活躍した六角といわれて、何の事かすぐ分かる人はだいぶ歴史が好きな人でしょう。
六角というのは室町時代を含め、鎌倉時代から戦国時代頃にかけて活躍していた一族の一つです。
そんな六角の一族が過ごした室町時代を切り取ってみてみると、まさに時代の波にもまれて万丈波乱な運命をたどっています。
では、どういうふうに室町時代を過ごしたのか、見ていきましょう。
六角ってそもそも何者?
六角の一族がどんな室町時代を過ごしたかを見てみる前に、どんな一族だったのか、簡単に紹介します。
室町時代において、六角はそもそも武士であり、守護大名の地位にありました。
治めた土地は近江の南部が中心で、鎌倉時代から戦国時代にかけてその名をとどろかせた一族です。
ちなみに近江という場所は今でいう滋賀県の事です。
六角の一族は守護大名の地位にある武士ですが、同じ一族の中には奉公衆として幕府に仕えるものがいたりと、内部には不安定な要素をもった一族でした。
六角氏、幕府から高評価を得る
先ほど紹介したように、六角の一族の中には奉公衆として幕府に仕える者もいました。
それはつまり、守護より幕府の命令に優先して従うものが内部にいるという事を示しています。
また、治めている領地の中には比叡山があり、治めるには難しい土地でした。
そんな不安要素も抱えていたため、室町時代に六角の支配は安定せず、不安定でした。
しかし、室町時代の六角満綱は正室に足利義満の娘を迎えており、満綱の子供である持綱は足利義教に従うなど、当時の将軍からは高評価を得ていたようです。
六角氏、幕府から討伐の兵を向けられる
将軍からは高評価を得た六角の一族。
しかし、そんな高評価から一遍する出来事を起こしてしまいます。
きっかけは六角の一族の行った横領でした。
当事者となった六角の一族の名前は六角行高(のちの高頼)です。
なんと六角氏、荘園や奉公衆の所領を横領し、自分の領地としていたのです。
もちろんそんなことがまかり通るわけもなく、六角の一族は近江の奉公衆から訴訟を起こされてしまいます。
そこで詳しく調べてみると、六角氏、なんと寺社本所領すら横領していたことがわかります。
室町時代のその頃はそんな横領がよく起こっていました。
そこでさすがに面目を潰された形となる幕府は、威信回復のために六角行高を討伐するため兵を差し向けます。
室町時代の後半、長享元年(1487年)、そして延徳3年(1491年)の2回にわけて討伐の兵を向けられたこの出来事を長享・延徳の乱といいます。
また、その内容から六角征伐とも言われています。
ある時は時の将軍に重宝され、その一方で討伐の兵を向けられるなど、その評価の落差が激しい六角の一族。
室町時代に活躍していた六角は詳しく見ていくと、何とも人間味のある、興味の尽きない一族なのです。