さまざまな伝統文化が発達した室町時代。
伝統的な日本の料理の基礎もこの時代に確立しました。
農産物の生産量もあがり、食事方法も豊かになっていったこの室町時代。
でも、農民の食事を見てみると、どうも少し、私達の想像とは違っているようです。
自家菜園、全国にひろがる。
室町時代は農産物のとれる量が増えた時代でした。
それだけではなく、それまで口にしていた野菜の種類も共に増えていきました。
そんな室町時代を背景に、面白い変化を見てとる事が出来ます。
その変化を見てとる事が出来るのは「高山寺縁起」という絵巻物。
この絵巻物には、今では全国的なあるものが描かれているのです。
そのあるものとは、自家菜園のこと。
農民でもない人が、自分の家で消費する野菜を作る菜園です。
今では趣味とする人も多い自家菜園は、実は室町時代に広まったものだったのです。
米が主食に!
室町時代には農産物のとれる量が増えた事は先ほど述べたとおりです。
そして、増えた農産物の中には米もありました。
それまでは粟や稗を食べ、それが主食になっていましたが、米の収穫量が増えたことで徐々に米が主食になっていった時代でもあります。
現代と同じ、米を主食にする慣習はこのころ生まれ、広がっていったのです。
農民だけ、苦しい食事情?
ではそんな風に食事情が豊かになっていった室町時代、もちろん農民も豊かな食事をとっていた、と考えてはいけません。
実は農産物をみんなに提供するはずの当の農民たちは、きわめて苦しい食事情の中にいたのです。
まず、米の生産量が増え、主食が米に変わる中で、農民たちの主食はそれまでと変わらず、自分たちで作った米でありながら主食になる事はありませんでした。
実は、確かに生産量は増えていったのですが、農民たちが収穫した米はほとんど年貢として差し出していたのです。
農民たちの主食が米ではなかった事、そしてきわめて貧しい食事をとっていたことがわかる資料があります。
それが「空善記」です。
これは一向宗の高僧である空善がその師、蓮如の言行を記した資料です。
その中で蓮如が奥州地方に下向した時、農家で食事をいただいたという記述があります。
その時、「いつも通りのものを出してくれ」と伝えた蓮如に差し出された食事は、稗粥だった、とあります。
その稗粥などを常食としていたことからわかるように、農民の食事は貧しいものだったのです。
僧侶、武士などが度々酒宴をひらき、食べる事を楽しんでいた室町時代。
ですが、農産物を作ることでその酒宴を支えていた農民の食事は、武士たちとは対照的に極めて質素であり、苦しい生活を物語っているのです。