日本と近い距離にあり、いわゆるご近所の国々という立場にある東アジア。
そんな東アジアとの交流は昔から連綿と続いてきました。
では、そんな東アジアとの交流が室町時代ではどんなふうに行われていたのか、見ていきましょう。
倭寇に悩む東アジア
室町時代のころ、東アジアを始めとして世界の情勢は大きく変わっていきました。
例えば高麗を見てみましょう。
当時、日本には対馬、壱岐、肥前松浦地方の住民が中心となっていた海賊がいました。
それが倭寇です。
この倭寇、日本ではなく朝鮮半島や中国大陸の沿岸を襲い、そこの地域の住民からは非常に恐れられていました。
この暴れ者の倭寇たちに手を焼いていた高麗はどうにかしてもらうため、日本に使者を送ったのですが、あいにく、その頃の日本は内乱のため混乱の最中にあり、それどころではありませんでした。
そのため、この時点では東アジアとの交流とはならなかったのです。
国交開始!足利義満の決断
倭寇に悩む高麗とはうまくいきませんでしたが、室町時代でもっとも安定期の将軍、足利義満の頃は東アジアとの交流が本格的に始まった時期です。
内乱も収まり、幕府を安定させた足利義満の時代は現代にも伝わっている伝統文化が、より発達した豊かな時代でした。
そんな時代の最中、明が国交を求めている事を知った足利義満は正式に明との国交を開始します。
当時、私的な商船の行き来はあったものの、正式な外交関係があるわけではなかったのです。
そんななかで足利義満は明との貿易を開始するという大きな決断を下しました。
明との立場が対等ではなく、明よりも日本の立場の方が下となる朝貢貿易を開始したのです。
明よりも下となる立場での貿易のため、反対する者もおり、事実、のちに明との貿易は一旦取りやめになったりもしましたが、当時の足利義満はついに明との貿易に踏み切ったのです。
これが室町時代を代表とする東アジアとの交流の始まりでした。
今度こそ倭寇の禁止を!
倭寇に悩み、日本に使者を送ったもののタイミングが合わなかった高麗。
そんな高麗は1392年、倭寇を撃退したことで有名になった李成桂に倒され、新たに朝鮮が誕生しました。
この朝鮮も日本との国交をもとめ、さらに高麗と同じように倭寇の禁止を日本に求めました。
そしてそれを受けた室町時代の日本の将軍、足利義満もこれに応じ、正式に国交が開かれたのです。
このように徐々に東アジアとの交流は始まっていきました。
また、朝鮮との貿易では日本に木綿などが沢山もたらされ、日本の生活のあらゆる部分に影響を与えました。
このように、室町時代に始まった東アジアとの交流は日本の人々の生活に様々な影響を与えたのです。