室町時代に増えた関所、得をするのは誰だったのか

ただ単に関、とも呼ばれることのある関所は、時代劇などのテレビでもよく耳にしたことがあると思います。

関所とは、交通の要となる場所に設けられた施設で、検問や徴税のために作られたものです。

室町時代に入って地方経済の発達や交通状況が整ってくるにつれて、関所もその数を増やしていきました。

では、交通の要となる場所に設置された関所は、誰が、どんなところに作ったのでしょう。

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歌にも登場した関所

「行くも帰るも逢坂の関」。

こんな歌を聞いたことがある方も多いでしょう。

ここで歌われている逢坂の関とは、実際に山城国と近江国の国境にあたる場所に古くから設けられていた関所です。

大津の南に逢坂山があったため、逢坂の関と歌われたのです。

歌にも歌われるほど身近にあった関所は街道の様々な場所に設けられ、そこを通る為に交通料が必要とされました。

特に室町時代に入って関所の数が植えていきました。

室町時代には交通状況が整い、地方経済も発展したため、街道を通って商品を運ぶ人々の数も多かったのです。

そのため、室町時代に起きたその波に乗って関所はその数を一気に増やしていきました。

そんな関所を設けたのは幕府や朝廷、貴族、寺社に守護といった面々で、関所を通る人々が支払う交通料はこれらの重要な財源となっていました。

交通料、水路でもしっかりいただきます

交通の要に設置されていた関所ですが、関所があるのは陸の上だけではありませんでした。

海や水路などの水の上を通る場合でも、関所は立ちふさがっていたのです。

陸路である街道にある関所は「道路関」、水の上を通る場合は「海路関」ともいわれ、その数も多いものでした。

室町時代、最大の幹線水路である淀川には、1457年ごろには最高400もの関所が設けられていたというから驚きです。

陸路だけではなく水路を通る場合でも、しっかり交通料は取られていたのです。

京都には関所が集中していた?

室町時代になると、京を軸とした交通が発展しました。

もちろん、そんな京都に入る道には関所が集中します。

室町時代から江戸時代にかけて、京都に入る街道の出入口にはいくつかの関所が設置されていました。

その関所の事を京都七口の関といいます。

七という数字がついていますが、これは関所が七つだったという事を表しています。

しかし、この七という数字は一定ではなく、時代によって数が増えたり、減ったりしていました。

そのように、室町時代の幕府などの貴重な財源とされた関所ですが、その数の多さと交通料の高さから、土一揆によって打ち壊されることもありました。

室町時代の幕府などにとって貴重な財源であった関所は、役に立つ部分はあるものの、そこを通る人々にとっては必ずしも歓迎できるものではなかったのです。

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